2007年 10月 14日
ミリキタニの猫 |
ドキュメンタリー映画はお節介から始まる(ような気がする)。ここ最近たて続けにキュメンタリー映画を観た結果のセオリーです(たった3作ですが)。アレをコレをコノ人を、世の中に知らしめたい思う制作者のお節介から全てが始まります。もちろん撮る側がお節介する人で撮られる側がお節介される人です。撮る撮られる関係から一歩踏み出した時に、予想以上の化学反応みたいなものが起こる。そこからとんでもない作品が生まれるんではないでしょうか。ドキュメンタリー映画の申し子マイケル・ムーアはいつも怒ってますが、彼の映画も問題意識にかられたお節介であることは否めません。正義感でもエロい感情でも、やむにやまれぬ衝動に駆られてつくられた作品は、何かしら人の心を動かすものです(感情とかとは一切無縁のところにある美しさというのもありますが)。他者へのポジティブな干渉が、映画はもとより日常生活やビジネスにとっても原動力になっているんだなと実感する芸術の秋でございます。
この映画の主人公、ジミー・ミリキタニとリンダ・ハッテンドーフ監督の出会いはまさにとんでもない化学反応を引き起こしました。ジミー・ミリキタニは80歳を超えた日系人アーティストでNYの路上で生活しています。その近所に住むリンダがミリキタニの猫の絵を買ったことから映画は始まります。ジミーは絵の代償として自分を撮影することを依頼し、それを機にリンダはあれこれと彼の世話をやくようになります。そんな中でおこった9.11。猛塵の中、ただ1人黙々と絵を描き続けるジミーを見るに見かねて、リンダは彼を自分の部屋に招き入れます。リンダは彼に社会保障を受けるようにと勧めますが、ジミーはそれを拒みます。バカなアメリカ政府の支援など受けないと語気を荒げます。彼は真珠湾攻撃後、日本人収容所に入れられ、市民権を剥奪された過去がありました。しかし、リンダの粘り強い説得にジミーは心を和らげ、やがて彼のこれまでの人生が徐々に語られていきます。そしてクライマックス、ジミーは原点となるツルーレイクの日本人収容所ツアーへと出向き、ようやく長年の怒りを解消するに至ります。その軌跡はさらに世界各国での賛辞という化学反応を引き起こしました。
ジミー・ミリキタニ画伯曰く「自分はアートのグランマスターである」。日本画っぽいモチーフをペンや色鉛筆で描いた彼の作品は、ゴージャスとはほど遠いけれども、確かに独創的で見る人を引きつけます(自分をイイ男だと言い切る笑点でお馴染みの三遊亭小遊三も見ようによっては実際イイ男です)。素朴なタッチで一見人の心を和ませますが、その奥には希望絶望怒り祈りといった様々な感情がうごめいていて悲哀に満ちています。彼が体験した日本人収容所の絵はもちろんのこと、タイトルにもなっている猫の顔は妙に人間っぽくて哀しげです。しかし何よりも哀しげなのは、凍える雨の中、肩と首を直角に折り曲げて暗い顔で絵を描く彼の姿です。誇り高きチャーミングなおじいちゃんであるジミーですが、過去と理想と現実が彼を苦しめているのは明白で、リンダと出会った当初の彼の姿はハッキリ言って「痛い」。しかし映画の後半では本来を自分を取り戻すかのようにイキイキと輝きだし、絵を描く姿からも悲哀は薄れていきます。撮るという行為が人を変える。ジミーは無意識に赤ん坊のような感受性でリンダを選び、そのきっかけつくることを彼女に託したのです。
冒頭で「ドキュメンタリーはお節介から始まる」と言ってしまいましたが、この映画においては、<リンダがジミーに>アクションをおこす前に、<ジミーがリンダを>見つけた時点で始まっていました。良くも悪くも全ては人と人の出会いから始まります。何かを解決するのも人との出会いかもしれません。反戦、9.11、人権など世界共通の問題を要素として含むこの映画ですが「まずはすぐ近くの人に目を向けてみることから、何かが変わるんじゃない?」とやんわりと説教してくれます。全ての事象の要は個人と個人のつながりであるということを再認識しなければ、事態はより切迫したものになってしまうかもしれません。
この映画の主人公、ジミー・ミリキタニとリンダ・ハッテンドーフ監督の出会いはまさにとんでもない化学反応を引き起こしました。ジミー・ミリキタニは80歳を超えた日系人アーティストでNYの路上で生活しています。その近所に住むリンダがミリキタニの猫の絵を買ったことから映画は始まります。ジミーは絵の代償として自分を撮影することを依頼し、それを機にリンダはあれこれと彼の世話をやくようになります。そんな中でおこった9.11。猛塵の中、ただ1人黙々と絵を描き続けるジミーを見るに見かねて、リンダは彼を自分の部屋に招き入れます。リンダは彼に社会保障を受けるようにと勧めますが、ジミーはそれを拒みます。バカなアメリカ政府の支援など受けないと語気を荒げます。彼は真珠湾攻撃後、日本人収容所に入れられ、市民権を剥奪された過去がありました。しかし、リンダの粘り強い説得にジミーは心を和らげ、やがて彼のこれまでの人生が徐々に語られていきます。そしてクライマックス、ジミーは原点となるツルーレイクの日本人収容所ツアーへと出向き、ようやく長年の怒りを解消するに至ります。その軌跡はさらに世界各国での賛辞という化学反応を引き起こしました。
ジミー・ミリキタニ画伯曰く「自分はアートのグランマスターである」。日本画っぽいモチーフをペンや色鉛筆で描いた彼の作品は、ゴージャスとはほど遠いけれども、確かに独創的で見る人を引きつけます(自分をイイ男だと言い切る笑点でお馴染みの三遊亭小遊三も見ようによっては実際イイ男です)。素朴なタッチで一見人の心を和ませますが、その奥には希望絶望怒り祈りといった様々な感情がうごめいていて悲哀に満ちています。彼が体験した日本人収容所の絵はもちろんのこと、タイトルにもなっている猫の顔は妙に人間っぽくて哀しげです。しかし何よりも哀しげなのは、凍える雨の中、肩と首を直角に折り曲げて暗い顔で絵を描く彼の姿です。誇り高きチャーミングなおじいちゃんであるジミーですが、過去と理想と現実が彼を苦しめているのは明白で、リンダと出会った当初の彼の姿はハッキリ言って「痛い」。しかし映画の後半では本来を自分を取り戻すかのようにイキイキと輝きだし、絵を描く姿からも悲哀は薄れていきます。撮るという行為が人を変える。ジミーは無意識に赤ん坊のような感受性でリンダを選び、そのきっかけつくることを彼女に託したのです。
冒頭で「ドキュメンタリーはお節介から始まる」と言ってしまいましたが、この映画においては、<リンダがジミーに>アクションをおこす前に、<ジミーがリンダを>見つけた時点で始まっていました。良くも悪くも全ては人と人の出会いから始まります。何かを解決するのも人との出会いかもしれません。反戦、9.11、人権など世界共通の問題を要素として含むこの映画ですが「まずはすぐ近くの人に目を向けてみることから、何かが変わるんじゃない?」とやんわりと説教してくれます。全ての事象の要は個人と個人のつながりであるということを再認識しなければ、事態はより切迫したものになってしまうかもしれません。
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by ajablog
| 2007-10-14 17:07